「おい」
晴れて主人は幸福を手に入れた。それはいい。エステルにとって、一番とまではいかないが、まあ重要なことだ。自分の仕える主人が幸福かそうでないかというのは、巡り巡って自分に返ってくることを考えれば重要であるといえるだろう。
一通りの思考を巡らせ、掛かった声には軽い目礼のみで済ませようとしたエステルの背後から、更に不機嫌そうな声が掛かる。
「耳が悪いのか。人が呼んでいるのも聞こえないのか」
とりあえず想像の中で相手をぶん殴ってから、エステルは振り向いた。予想に違わず、そこにいたのは見目だけは、まあ悪くないと言っても差し支えのない若い男だ。
ただし、これは何分エステルの印象によるものなので、ドルーが聞いたら首を振って否定しそうだ。エステルの主人の印象がどうあれ、エステル自身の持つ印象はやっぱり、見目は悪くない男ということにしかならない。ついでに言えば、エステルは男の見目についてはどうでもいいと考えている。
要約すると、エステルにとってはどうでもいい男となる。
「――何か用でございますか」
いつも通りのつっけんどんさで返すと、その男はややたじろいだように一歩後ずさる。
人に声を掛けておいてその態度は何事かと、これまた内心で激しく罵り、エステルは相手の顔を半ば睨むように見上げた。これが自分の主人の夫となる人物の弟、つまりは主人の義弟となるわけだが、そういう立場の人間でなければ実際に行動に移していたかもしれない。
そこまで考えて思い出した。そういえばもう、それは一度やってしまっている。
「用もないのに人を呼び止めるのはご遠慮くださいませ、ウィリアム様。それでは私はこれで」
さっさと言い置いて、エステルは廊下を振り返りもせずに進んでいく。一秒でも長く留まっていたら、こちらからでも喧嘩を吹っかけてしまいそうだからだ。たぶん、相手が気に触ることを言う方が先だろうけれども。
だから、エステルは気付かなかった。
ぴしゃりと言われてしまったウィリアムがなんというか、困ったような、怒ったような、とにかく顔を歪めてその場に立ち尽くしていることに。
まあ気付いたからといって、どうという話でもないのだがこの場合。
相手はたかだか侍女の女だ。
そう自分に言い聞かせる。それ自体が既に以前の自分では考えられないことで、しかし彼はそれに自分で気付くことはなく。
――見事に敗北を喫した。
ああくそなんなんだあの女は!
内心で思い切り毒づきながら、ウィリアムは廊下に不機嫌さを振り撒いていた。この殿様が不機嫌になるのは、まあそれほどないことでもなかったのでこの城の侍女たちは特に驚かなかった。ああまたか、ぐらいの印象は持っても、それ以上には思わない。
一方のウィリアムは、今までにないほどに不機嫌だった。
傍目にどう映っていようが、彼の人生で最大の屈辱だ。いや、これが初めてではない。あの侍女と相対するといつもこうだ、なんて目障りな存在なんだ。
それだけではない。あの礼儀知らずの侍女は、こともあろうか自分を謀ったのだ。暴言まで吐いた。もっとも、これは自分に向けてのものではなかったが。
――いや、そういえばその前に既に吐かれていた。
まったく、主人が主人なら侍女も侍女だ、ケイツビーの領主はよほど寛容とみえる。
苛々しながら、ウィリアムは思い返す。
大体侍女の癖になんだあの愛想の悪さは。
召使い達が早くもケイツビーから来た侍女を恐れるようになっているのは知っている。あの愛想の悪さと遠慮の無さでは当然だろう。
目上の人間に対する態度もなっていない。
自分に怒鳴り返してきた侍女など、他にいるものか。
自分を睨みつけた侍女もだ。
こちらの話を聞かずにとっとと立ち去るとは一体何事か。
思いつく限りの悪行を数え並べていると、更に怒りが増してきた。
せっかくこちらから話し掛けてやったというのに、あのエステルという侍女はこともあろうに、つっけんどんに返してきた。
何か用か、だと?
まるで用がなければ話し掛けてはいけないと言わんばかりだ。
主人にはそれでも忠実なようだから、よく分からない。あんな気性のくせに、自分の主人を思いの外大切にしている。
自分の主人のためにあそこまで怒ることの出来る召使いは、そうそういない。
多分、自分の臣下にはいないだろう。
――だからなんだというのだ。
自分の思考があらぬ方向へ逸れているのを自覚して、苛々とウィリアムは壁に拳を叩きつけた。
その苛立ちの原因ははっきりしている。
しかし、その理由に彼が思い当たるまではもう少し、余裕というものが必要になる。
「緑の犬」は『犬が来ました〜ウェルカム・ミスター・エカリタン〜』に収録されている短編です。
――と書かないと一体何の話だか。いや、書いても解らんか。
コバルト文庫です。
主人公ほっぽって侍女の話ですかい。
前半と後半で別々だったのを一緒にしました。
だからタイトルもそのまんま。
030414/20