Over the sky





 ちょうどベランダに出たのと同時に、キ……ンという飛行音を響かせてJAS39グリペンが飛び立っていった。聞き慣れた音、見慣れた風景だけに今更どうと思うことはないけれど。
 航跡が青い空に描かれていく。その青は暑い、夏の空の色。
「おっつかれー!」
「わきゃぁっ!?」
 がばっと背後から抱きつかれ、私は思わず悲鳴をあげていた。
 ぼんやりとしていたところに受けた衝撃は大きい。
「ちょっと若菜ー、もう少し可愛らしい悲鳴はあげられないの?」
「……クー。暑いんだからやめてよ……」
 学園祭での劇の準備を通してすっかり仲良くなった久我聡美が、呆れたような顔をしてそこに立っていた。クーというのはTACネームで、彼女がパイロットであることの証だ。最近は私も彼女のことをTACネームで呼ぶようになっていた。クーの方も、呼び方が「水木さん」から「若菜」へと変わっていて、それがなんだか嬉しい。
「ほんと、あっついよねー」
「だったら抱きつかないでよ。余計暑いでしょ」
 ベランダの手すりに寄りかかりながら、私とクーは揃って空を見上げた。
 背を向けた教室の方からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。ひときわ高い加奈子ちゃんの笑い声から察するに、きっとまた俊治をからかっているんだろう。我が弟ながら、絶対にニーナの衣装が似合うに違いない。
 とはいえ、さすがに加奈子ちゃんの目の前で着せるのは可哀想だと思うぐらいの姉心というものも持っている。……これは家でこっそり着せてみるしかないわね。
「――グリペンかあ。やっぱいいよねぇ」
 ぼんやりと呟いたクーの言葉に、私は思わず彼女の横顔に視線を走らせた。
 それに気づいた彼女は苦笑しながら言う。
「ま、ヘギーやトシと違って、二予生のあたしが乗れるわけないんだけど。せいぜいT2がいいとこよね」
 同じパイロットと言っても、俊治や萩野くんのような一種飛行予備生徒、通称一予生は既にグリペンでの作戦行動に参加している。とはいえ、二種管制予備生徒の私も管制室での誘導などを行っている。クーだって、戦況次第ではすぐさま出撃することになるかもしれないのは変わらない。
「あー、やめやめ。こんなときぐらい、学園祭に全身全霊注いだってバチは当たらないわよね」
 ……そんなことは出来ないと、私もクーも分かってはいる。けれど、思い込むことは、出来る。
「そうよね。特にクーはもうちょっと台詞を覚えてもらわないと、トレープレフ役が可哀想だもんねー」
「トシよりはましだと思うけど」
「――それもそうね」
 我が弟の大根役者ぶりはとにかく凄いのだ。
 それにひきかえ私が演じる幕でのトレープレフ役の萩野くんは、なかなか様になっている。正直、驚いた。チェーホフの『かもめ』を学園祭で演じるなんてどうなることかと思ったけれど、段々と形になってきているのを実感すると、俄然やる気も出てくる。
「あれ、もうちょっと何とかしないと、トシがものすごい有名パイロットとかになったときに「お宝映像発掘!」とかって繰り返し流されちゃったりするんじゃない?」
 さらりと、クーは未来のことを口にした。
 別にそれを口にすることは禁じられているわけでもない。ただなんとなく、口にするのが憚られるというか、この状況が変わるということを示しているようで、私たちには口にする勇気がなかったのだ。
 変わらないものなんて、あるはずがないというのは私たちの誰でもが分かっているから。
「それはクーだって同じじゃないの」
「うーん。あたしさあ、もし、もしもの話だよ? ……戦争が終わったら、の話だけど」
 声を潜めて、クーは消えつつある飛行機雲を見上げてひっそりと呟いた。
「ジャーナリストとかいいなあ、って思ってるんだよね」
 明確にイメージできない、イメージすることを暗黙のうちに許されない、それは将来の話。
 私たちは日々を生きてはいるけれど、その先に繋がっているのが今日の続きの明日ではなく、遠い未来なのだと考えもせずにいる。
 考えたら怖くなるからかもしれない。
 けれど彼女は、その先を見ていた。
「何それ、夕紀さんの影響?」
「かも。――ま、本当に、漠然とそんな風に思ってるってだけだし。もちろんオフレコだからね?」
「当たり前じゃない……」
 私はそんな風に、漠然としたものですら考えたことがなかった。
 けれど、筑波航空学校の生徒は大概がそんなものだろうということも分かっている。
「よーし、午後も練習がんばるか!」
 大きく伸びをして教室へと入るクーの背中を追いかけながら、私も呟いてみた。
「将来、か……」
 もし、この先戦況が大きく変わったとき。
 遠い未来ではなく一日一日を生き延びなければならなくなったとき、そんなことを考えている余裕はないはずだ。だからこそ、今、考えておいてもいいかもしれない。
「若菜ー、何してんのー? 始めるよー!?」
「あ、うん、今行く!」
 熱風のような空気の向こうに、飛行機雲は掻き消えて、残ったのは深い青。
 グリペンはきっとあの青い空を越えて。




 群青の空を越えて、学園祭準備期間中。
 筑波戦闘航空団詳報のショートストーリーを見て、こんなんかな、と。


 060717