井戸の傍
某の貴族は、その悪名からは想像もつかぬが、浮名はほとんど聞かない。一の姫の香以外に子はない。
この時代、少なくともこの位にある貴族にしては珍しいことである。
妻問婚が一般であり、また正妻以外にも何人もの女性の相手を持つのがごく当たり前の時代に、奇矯なことである。
それが広大な屋敷に人脈、金脈を持ち、尚且つそれに伴う悪名が知られた者とは思えぬが、浮名を聞かないどころかさしあたって通うような女性もいない。
広大な屋敷に娘たる香姫と家人とで住む。
佐伯貴年は困窮していた。
佐伯はその姓の示す通り、伯家を佐けるための家である。
得体の知れない伯家だが、現在生まれたばかりの赤子とその姉がいる。
些か奇妙な紹介になってしまったが、目下のところ生まれた赤子が男であり、姉の方は伯家の家名を一身に背負うということはない。
その姉であるところの時継に仕えているのが、貴年である。
勿論のこと、佐伯の者である貴年は道士である。狩衣姿に元服前の髪型はどこから見ても少年道士の姿であるが、歴とした少女である。
伯家の内情が知られていないのと同様、佐伯の内情もまた複雑である。訳あって、少年の形をしている。
知るのは時継を含めた数人の家人、それに安倍晴明の子息、安倍吉平。
希代の陰陽師の父とて気付かぬ事に気付いたというのは何とも奇妙な才である。
さてその貴年、自らの家の事情が招き寄せた何ともしがたい状況に頭を痛めていた。
主は気付いているやらいないやら、何も言ってはこなかったが、気付いていないのだろうと思う。
そもそもの事の起こりは、主と常に伴にという、貴年の行動が招いた。
それが決して間違っているとは露も思わぬが、然りとて因果の根を請け負うのは確かなこと。どちらにせよ、難儀である。
某の貴族の一の姫であるところの香姫、その姿は幼くありながらも形は美しく整い、年の頃になれば名を馳せるのに間違いはないと言ってよい。
その香姫、近頃とんと落ち着きがない。
家人が大勢いるとはいえ所詮分の違う者共ばかり、広大な寝殿造りの屋敷に肉親はただ某の貴族であるところの父のみ。心を許す相手もないのを不憫と思ったか、伯家の姫君、つまるところ伯家時継が足繁く通うようになってからのことである。
家人はその語らいを殊の外楽しみにしているのだとばかり思っているが、実はそうではなかった。
香姫も幼いとはいえ立派な女人、時継のことは勿論楽しみではあるが、何よりもその姫君の傍らに寄り添う少年道士を甚く気にかけていた。
貴年は、先程申した通り。
となれば一の姫の思いに応えてやるのは到底無理な話だが、そもそもそのような事になってしまったのは自らが纏う狩衣姿、つまりは男装のせい。
しかしながら、好んでこのような恰好をしているというわけでもなく、言い出せずじまいになっている。
時継の伴をしていれば必然として香姫に会わなくてはならない。会うたびに香姫の心遣いを感じ取り、ますます言い出せぬ。
要は輪廻、堂々巡りであった。
「――それで、まだ言ってないんだ?」
奇妙な才の持ち主、安倍吉平は何気なしに言った。
しかしその瞳は笑っているのが分かる。何時ぞや大笑いをされたと思えば、最早気にもならないが。
「姫様の手前、あからさまに言うわけにもいかんのだ。
香姫様が姫様のお越しを何より楽しみにしているのは本当のこと、私の事などでそれを打ち切ってしまうというわけにもいかぬ」
「前途多難だなぁ」
「笑い事ではない」
「それはそうだけど」
言ったきり、暫し黙る。
やはり眼前の井戸のなかでは使鬼神の少女、訃柚が何時見てもそうであるように黙って御手玉を続けている。
いつも時継の傍を離れない貴年がこうやって吉平と伴にいるのは、ここ、保胤の庵を訪れた時だけだ。
「とりあえず、言えるのは」
唐突に吉平が言う。こういうところは確かに父に似ているのかも知れぬ、貴年はそんな事を思ったが。
「時が片を付けてくれる事もあるよ」
「お前はいつも楽天家だな」
「そうかな?」
「そうだ」
訃柚の御手玉の音が井戸の中から静かに響く。
一方の粗末な庵の中。
稀な来客は去る気配を見せない。
「そういえば保胤、香殿の事、気付いておるか?」
「何がです?」
「いや、何でもない」
ふと思い立って尋ねるが、当の本人にしてみれば”少年”の事情など知る筈もなく。
加えて己の身を振り返って、この男の鈍さに思い当たり時継は人知れず息を吐いた。
庵の中のそんな遣り取りなど露知らず、二人の少年道士の言は続き、
庵の内と外を知ってか知らずか、相も変わらず倦むことなく使鬼神の少女は御手玉を続けていた。
もう笑うしかないです。
こうなったらこのサイトのメイン、吉平×貴年にするしかないですか(待て)。
しかしもっと香姫の出番があったはずなんだが…………。
どこにいったんだろう。
にしても他所様でこういうのやってる人居るんでしょうかね。
02/02/10 初書