松の消息




 季節はそろそろ夏に差掛るという時分である。
 吹く風は初秋の折の爽やかなそれに似た清々しさを失ってはいないが、はたと気付くと陽射しはもう充分な熱を持って地上に降り注いできている。
 衣替えには少々早い、過ごしやすい日々がもうしばらく続くと思われた。



 にも関わらず。


 佐伯貴年は人の姿のないのを認め、渡殿で静かに息を吐いた。
 ここしばらく、どうにも気をはりつめているせいか、疲労が蓄積されているのが自分でもよく分かる。
 否、気を張っているのは常の事。そうせざるを得ない状況下にあるのだからそれ自体は大した事ではない筈だ。
 そこまで思い至り、頭を振る。自分の事は頭から追い払い、目下のことを考える。
 ここまで緊張を齎しているのは何か。
 問われれば思い当たるのは一つしかない。




 貴年の主がこの所物凄く不機嫌なのである。





 さて、その主たる伯家時継は、今日も今日とて御簾も何もない、質素な部屋の円座に座ったまま虚空を眺めていた。
 ここしばらく、そうやって芒っとして過ごす事が多くなった。時折、思い出したように溜息を吐く。
 そうして、何時の間にか日は傾き格子越しに部屋を紅く染めていく。
 そこでまた溜息一つ。
 日を追うごとに溜息の数は増えていく。
 自分でも分かってはいたがこればかりはどうしようもなかった。


「もう慣れたと思っておったがな…………」


 何時来るとも知れぬ知らせを待つのにはとっくに慣れ切ってしまっていた筈だ。
 もう既に充分すぎるほど待った。


 それなのに。


「何時まで待たせるつもりだ、あの男は…………」


 怒りを通り越して呆れてみたものの、やはり一旦戻って怒りが再燃する。
 床に突いた拳に知らず、力が入り、きしりと音を立てた。
 それに気付き、拳を緩める。
 方向の定まらぬ力は自らも傷付ける。武術の師にかつて言われた言葉を思い出す。
 再び息を吐き――溜息でなく――、格子戸を上げて部屋から出る。

 築地の上に、紫がかった空が見えた。




「姫様」


 掛かった童の声に、時継は驚嘆で応じた。

「どうした、貴年」

 振り向くと、珍しく戸惑ったような表情を浮かべている。


「その、姫様、あまり無理をなされませぬよう――」


 歯切れの悪い言葉に暫し意味を図り兼ねた。
 ややあって、ようやく思い当たった。時継が連日部屋に篭もっているのを、行をしているとでも思ったのだろう。


「案ずるな。何も根を詰めるような事はしていない」


 寧ろそれぐらいの事があれば良いのだが――
 続く言葉を時継は飲み込んだ。余計な事を言えば、この従者が要らぬ心配をしかねない。

 それにしても、と思う。

 主の様子に敏感なのはいいが、やはりまだ幼い故か、女心の機微までは分からぬと見える。
 そして、これぐらい鋭くこちらの心情を察してはくれまいか――ここには居ぬ相手に向かって、無理だと解り切っている願望を抱く。


「文章生の癖に手紙の一つも寄越さぬのだからな…………全く」
「姫様?」

 呟いた言葉は融けて消え、貴年の耳には届かなかった。


「なに、気に病むな。大した事ではない」

 もう十年も待った。今更一月や二月加わったところであまり差異はない。
 そうは思うが。


「だからと言って手紙を寄越さぬ理由にはならぬぞ、保胤」


 再燃したらしい主の怒りにまた貴年が溜息を吐いた。




 その後、時継が再会した保胤に行った仕打ちで気を晴らしたかどうかは、また別の話ではある。



 陰陽ノ京第三弾は珍しく王道。時継の話です。
 一応巻の一と巻の二の間の話。某の貴族の屋敷での再会以前の話です。
 んでもってあの嫌がらせ(笑)に続くわけですが。
 気の強い女性は好きです。梨花さんもそういう女性だったりするんだろうか。
 否、彼女はたおやかでありながら実は良人を操作しているというような人のような気がします。
 どちらにしろ、出演希望。安倍夫婦が書きたいです。

 えー、タイトル思い浮かばないので変です。
 元は「待ち侘ぶ」の意を込めた言葉を使いたかったんですがねー…………。


 02/03/12 初書