賭の行末






 どうにも上手くいかないこと、というのは往々にして人の世には溢れている。
 さしあたって人の世にそれは、なんと数多あることか。



 晴明は円座に座したままにそんなことを考えた。
 人の考えていることというのは、分かりようもないことだ。
 親しい者であってさえもそうであるからして、他人の事は分からない。
 となると、凡そ人の世というのは分からぬように出来ているのかもしれなかった。


 分からぬものを、どうやって意のままに出来るというのか。


 自分の考えていることが大層なものであるように思え、晴明は苦笑した。
 彼の操る陰陽道とはひいては世の真理を体現化したものではあるがさて、この天文得業生にはそのような気負いは全くない。
 あるのは、些細なことに手も出せずに傍観する無力さのみ。





「――なんですか、父上」


 尋ねる声に、険はない。
 ただ、童の無邪気さの後ろに晴明も舌を巻く利発さがある。


「あぁ、いや」


 曖昧に笑って過ごした父に、吉平が眉を顰めた。
 筆を置いて、しかと見据える。


「父上。最近おかしいですよ。言ってくれというわけではないですが、何か悩みでも…………?」



 いくら利発とはいえ、人を欺く方向へはとんと向かない息子の性質を知っている身となれば、苦笑するしかない。
 しかもいつぞや自身が問うた言葉を向けられては。


 成る程、悩みといえば悩みなのかもしれなかったが、悩みの種である当の本人に言えたものでもない。
 ――実のところ、それは非常に親らしい悩みであったのだが。



「悩み、なぁ。そういうお前こそ悩みはないのか?」


 人の悪い嗤いを浮かべて、晴明は言った。
 吉平は動じる事なくその嗤いを受け流し、答える。


「何時ぞやも言いましたが、さしあたって深刻になるほどのものはありませんよ。悩みなどというほどのものでもありませんし」


「そうか? ならいいが――」

「そういう父上こそ、何か気にかかることでもあるのではないのですか?」


 ある。

 だがまさか、それが妻との賭けだとは到底言えよう筈もない。
 いや或いは言ったところで両親の性質を知り尽くした息子である。苦笑はされるかもしれないが。
 しかし手の内を晒すこと、即ち賭けに負けるというのはどうにも気の進まないことである。


「ん? いや特には、な」

「そうですか?」



 どこがどうということではない。
 特に大きく変わったところがないというのは、保胤の口からも聞いている。
 となれば、内面の何か。

 晴明は、息子の変化に対し確たる何かを感じ取っていたわけではない。
 ただ、気配の違いを悟ったに過ぎない。




 晴明は特に深く考えてはいなかったが、それはやはり親の情ではあった。





「本人が悩むところはないと言っておるのだから、そうなのだろうがなぁ」


 安倍家の、軒先。
 縁側の向こうに薄暗闇をつくる竹藪に目を転じながら、保胤はその言葉に苦笑する。


「ならいいじゃないですか」
「そうもいかん」


 間髪入れず返事が返ってくる。
 それは端に不機嫌さを滲ませていた。


「あれの考えていることが分からんのはまあいいが…………梨花に負けるわけにはいかんしな」

「ああ例の。まだ続けてたんですか?」


 湯の入った鉄瓶を傾け、保胤が尋ねると視線で答えが返ってきた。
 その鉄瓶と、保胤と晴明が傾ける木椀とを持って来た梨花は、一度厨(くりや)へと戻っているが、すぐにこちらへ来るだろう。


「梨花さんは色恋沙汰と言っていましたが…………、僕もなんだかそういう気はします」


 湯を空けて、保胤が言った。


「なんでしょうね。時々、ですが大人びた、とでも言えばいいんでしょうか――そんな眼をしますね。
まあ元々吉平君はしっかりしていますけどね」

「全く孝行息子だよ」

「晴明さんが甘えるからですよ」


 茶化すような晴明にぴしゃりと言うと、保胤は後を続けた。


「なんていうか、生来の落ち着きだけではない何か、具体的にはよく分からないので何かとしか言い様がないんですが――、そんなものが加わったような気がします。それが恋愛の影響によるものであっても不思議じゃないと、僕はそう思いますよ」

「恋愛、なぁ――相手が要るな」

「それはまあ、吉平君次第ですよ。まさかそこまでは口出しすべき事でもないですし」

「そりゃそうだが。だがまだ決まったわけではないしな」

「ですね」



 糸目を更に細めて、保胤は頷いた。
 それがとても微笑ましいもののように思えたからだ。
 自身に子はないが、親になるとこういう感情を抱く事になるのかもしれない。



「あら、男二人でよからぬ相談ですか?」


 唐突に割って入った娘の声に、保胤も晴明もそちらを向く。

 晴明の妻にして吉平の母でもある、梨花が鉄瓶の湯を換えその場に正座した。
 にっこりと笑うその様は女童を思わせる。
 警戒心というものをまるで抱かせないところは、晴明とは反対の気質で明らかに吉平と同質だ。


「私も混ぜて下さいな」

「別によからぬ相談なぞしておらんよ」

「あら、そうですか?」

「吉平君のことを話していたんです」


 新しい湯を注ぎ、保胤は梨花に話し掛けた。


「どうですか、吉平君は。やっぱりあの変化は恋愛の影響なんでしょうかねぇ」


 のんびりとした口調の保胤に合わせてということではないが、梨花もまたのんびりとした口調で応じた。


「でしょうねぇ。賭けは私の勝ちですわね」

「まだそうと決まったわけではないぞ」


 晴明が保胤を睨みつける。
 その眼は薮蛇を言いおって、と如実に言っていた。


「いいえ、もう決まりました。あの子もそういう歳になったんですねぇ」


 一人得心する梨花に、保胤と晴明はただただ顔を見合わせるだけだった。


「兎に角賭けは私の勝ちですもの、今度きちんとそれ相当の賞品をいただきますわね」


 にこにこと人のよさそうな笑みを浮かべ、梨花は晴明に向けて言った。
 確信を得ているような梨花の言葉に、保胤が首を傾げた。


「――梨花さん、何か知っているんですか?」

「教えません」


 悪戯っぽく笑うと、梨花はそのまま無言になった。
 教えるつもりはない、ということだろう。


 晴明は肩を竦め、保胤は苦笑する。

 母親の勘とでもいうようなものなのだろうか。
 さて、父親にも分からぬことを保胤が分かる筈もなく。





 全く、人の事は、分からない。




 梨花さん出演おめでとう記念。
 きっと彼女は貴年の正体に気付いただろう、という設定で。

 さーて次は清良君受難編その2をば。
 兼良さん出演記念でも構いませんが。
 ああでも光榮さんも書きたいしなぁ。

 02/05/10 初書