兄の画策







「ちょっと待ってくださーいーっ」


 泣き声まじりの悲鳴が尾をひいて響いていく。
 朱雀門の内、大内裏は陰陽寮。



 どたばたと静寂を破る足音。
 全くもって大内裏には相応しくない、雅の欠片もない騒音。
 しかし、本人にとっては雅だろうとなんだろうと、知ったこっちゃない。


「駄目だよ清良、そんな五月蝿くしちゃあ他の方々に迷惑になるというものだよ」


 と、こちらはそんな必死さとは無縁の涼やかな声。
 怜悧さの伴う容姿に、声音。

 ――しかし、跳ねるように悲鳴の主を追いかける姿は実に見かけや態度とそぐわない。
 ふわりと浮かび上がりながらも身のこなしで騒音は全く立てていない。
 爽やかな笑顔と相俟って、一層の不気味さを醸し出していると言えよう。


「誰のせいですかぁぁっ!」


 悲痛な叫びに応える者は、しかし、いなかった。





 住吉清良は陰陽寮に勤める学生である。
 天文を修める学生の身、即ち天文生でありその上位には天文得業生がいる。
 天文得業生は一通り天文を修めた身であるが、陰陽師の空きを待つ待機職。
 要は先達と学生、双方の補佐と教授で使い走りの立場に等しい。
 となれば、天文生というのは更に使い走りの立場にあるとも言える。

 一方の怜悧な道士、こちらは天文生よりも上位の得業生。
 年の功という言葉もあるが、やはり実力も上位である。
 家柄が出世に物言う時代とはいえ、実力もやはり出世には必要な物である。

 住吉清良の兄、兼良である。





 先程から寮内を走り回っているために、学生らが遠巻きに見物しているのが見える。
 しかしながらそれほど驚いた様子はない。
 つまりは、この事態に慣れているということ。
 要するに、この事態は頻繁に起こっているということ。



「そんなに泣き喚いて、みっともないよ」


 整った顔の、眉を顰めて兼良は前を行く弟に呼びかける。
 優男であるが、清良とは漂う雰囲気がまた違う。
 その差は風格か。


「兄上のせいじゃないですかっ!」


 半蔀はここのところの気温の高さもあって、ほぼ上げられている。
 そのおかげで空いた隙間に手を引っ掛け、板の渡殿の角を素早く曲がり、清良はなんとか身を隠そうとする。

 と――


「五月蝿い」


 声と共に突き出された足に、清良は勢い余って転がる。
 強くどこかを打ちつけるような柔な鍛え方はしていないが、それでも転がれば痛い。
 きっ、と振り返った清良は、そのまま固まることとなった。



 所々破れ解れた狩衣に、不精に伸びた蓬髪。
 薄汚れた無頼漢という見た目は大内裏にいる者のなかでは異彩を放つ。
 しかしながら、その実力は寮内でも上級に属する。
 陰陽頭、賀茂保憲の長男、光榮である。

 ふわぁと欠伸を一つ。
 蓬髪を掻きながら、光榮は清良を蹴っ飛ばした。
 無頓着な動作だが、なんというか、油断のならない雰囲気を漂わせている。


「お前らが五月蝿いから起きちまったじゃねぇか」


 ――まだ日は高い。
 即ち、勤務時間内ということである。
 そしてここは陰陽寮であり、勤務場所である。
 当然のごとく光榮は言うが、寝てていい時間と場所では決してない。

 人のことは言えない立場であるし、何をされるか分からないので清良は間違ってもそんなことを口にはしないが。


「あ、兄上に文句は言って下さいっ」

「兼良か。全く次から次へと」





「人を諸悪の根源のように言うのは感心しないよ、清良」


 出た、と口を動かして、清良は振りかえる。
 視界の端では光榮が顔を顰めるのが見えた。


「だだだって、兄上が――」

「清良。仕事を放り出すのは良くないと思わないかな?」


 にっこり。
 年頃の女をひっかけるにはこれ以上ないほどの笑みではあるが、それ以上に底の知れない笑みでもある。
 清良は薄ら寒いものを感じて、一歩下がる。
 一歩以上下がると今度は光榮に何をされるか分からないので下がれないのだが。

 胡座をかいて事の次第を眺めていた光榮が、兼良に声をかけた。


「弟で遊ぶのは結構だがな、今度からは人のいないところでやってくれ」

「遊ぶだなんて心外ですね。仕事ですよ」


 気質は正反対ながら、その実力は伯仲。
 その為よく組まされる事もあり、兼良と光榮はそれなりに親しい。
 しかしその見た目からは想像出来ない。決して。


「仕事、ねぇ。どうせ碌でもないんだろうが」

「いえ、そんなことはありませんよ」






 歓談中の二人に、これ幸いと清良はこっそりと部屋を後にしようとする。
 が。



「清良。何処へ行くのかな?」



 にっこり。
 はっきり言って、なまじ怒鳴るよりも性質が悪い笑みである。

 射竦められたように動けない清良は、結局のところ兄に従う他はない。




「で、何だって?」

「ああ、そうですね。まず薬の精製をですね」

「仕事か?」

「仕事に決まっているじゃありませんか。それで、まず山で百足を――」




 童のように笑顔を浮かべて話す兼良に、人の悪い嗤いでもって相槌を返す光榮。

 一言一句に顔を青くする清良の事を知ってか知らずか、悪巧みの相談は続く。





 次の日にげっそりとやつれた表情の清良が寮内で目撃されたとかされないとか。

 まあ日常茶飯事であるので誰も気にしなかったというのはここだけの話。



 清良君受難編その二。
 兼良さんて何気に弟いじめてそうだよなぁ、と。
 そんでもってついでだから光榮にも一緒になっていじめてもらいました。
 哀れ。百足嫌いの彼が何をされたんだかはご想像にお任せします。

 えー、補足を少し。
 巻の三における百足誘き出し作戦(笑)の際、いたのは晴明、保胤に兼良、光榮、秋水、一衛。
 保胤以外は「学生と得業生を含む5人」で、「晴明よりも若くして正式の陰陽師を務める道士」がいます。
 この正式の陰陽師が誰かは分からないのですが、おそらく光榮ではないかと。彼はこの当時は定かではないですが、役職としての陰陽師に就いています。
 秋水と一衛は主に探索、控えとされていたので光榮、兼良の両者は少なくとも彼らより実力も格も上のはず、となると、相応の実力を持つ兼良と光榮が未だ学生だとは思えません。
 兼良の場合は光榮より、実力もさることながら、世渡りもきちんとやっていそうですし(笑)。
 でも、やっぱり家柄も響くということで保憲の息子の光榮は早く出世したんではないかと。
 なんだか長くなりましたが、ここでの兼良は得業生、ということで。
 なので、作戦要員は光榮が陰陽師、兼良と晴明が得業生で秋水と一衛が学生という構成として捉えております。保胤さんも学生ですが、彼は陰陽寮の一員ではなく文章生なので。

 ――とかいって腕が立つから学生だけど加わってたとかだったりして。
 いやいや、少なくとも一衛よりは腕も年も上のはず。
 まあ光榮陰陽師説はちょっと怪しいですが、それでも得業生はともかく陰陽師ってのは技術職ですから、
 多分控えの秋水よりは可能性があると思うんですがいかがでしょう。
 ま、どちらにしろ格は上なんでいいかな。

 02/05/12 初書