――あな恨めしや 世は春榮

 然れど我が身を 振り見ては

 切れぬ玉の緒 口惜しや――









 季節は疾うに過ぎたというのに、その日はまるで春陰であった。
 薄衣が広がったような雲は、陽光を遮ると共に、その熱も遮っているようだった。
 滴を落としそうな気配はないが、花冷えのような空気は冬の鈍空を連想させる。

 良い天気とは言えない。




「晴れていたらよかったんだけどね」


 それほど残念そうな素振りは見せずに言う吉平を目で追いながら、貴年は洞穴の入り口で佇んでいた。
 曇天の元、樹林の影とくれば視界は滅法悪い。
 修行を積んだ身であればこそ、大した労もせずに山中深く辿り着いてはいるが、それでも洞穴の奥は更に闇深く、見渡せそうもない。
 何時ぞやのように夜の暗闇ではないが、薄雲を通した光では流石に葉陰にまでは届いて来ない。

 件の鬼女の事の顛末は、安倍晴明の識人であるところの橋十から聞き及んでいる。
 今日、拐された娘らが連れて来られたこの場に吉平と貴年とが居るのは、その鬼になった女に、娘の安否を知らせてやりたいという思いからだった。


「怪我をしたところは傷まない?」


 天候と似つかわしくない明るい笑み。
 安倍吉平と言う少年の徳であろう、ひたすら柔和なその態度は人を逸らさない。


「ああ、大丈夫だ」


 答える貴年の声は浮かない。
 だがその事には触れず、吉平は言を繋ぐ。


「良かった。傷が残らないといいんだけどね」
「…………恨んでおるだろうな――私を」


 軽い言葉に隠された真意に気付かぬ筈もなく、貴年は吉平の言葉の途中に呟いた。

 偽鬼の女の言葉。
 世の果てまでも恨むと、凄絶な鬼気を遺して符札に封じられた。
 その符は今、貴年の手元にある。

 俯くその姿に、吉平はふと、笑みを消した。


「――符札に封じた鬼は、往生出来ない。けれど、恨みを抱いたまま死に切れずにいるのはもっと辛い事だと思う。
本当は、もっと前になんとか出来ればいいけど、それは無理なんだ。だからその場で最良と思える選択をするだけだよ。少なくとも僕は、そのまま放っておくよりよかったと思うよ」

 そこで再び、笑みを浮かべる。


「確かに、その存在をただ否定するのは間違いなのかも知れないけど、それでも苦しんでいるのを放ってはおけないしね」

「――吉平は、強いな」
「貴年?」
「私には、そうは思えぬ。間違いだとは思わない。だが――」


 強い怨念の篭った声や音は、その源を封じたとて、容易に消えはしない。
 耳にこびりつくその声は、暫く貴年の中に在り続けるだろう。


「悩むのはいい、ただ信念を曲げるな、正しいと思った方に進め――父上がそう言っていたけど、その通りだと思う。だから、貴年も暫く悩んでみていいんじゃないかな」


 飽くまでも明るい吉平の声に、貴年は少しだけ、気持ちが浮上するのを感じた。



「――天宗真火 発降成行 書禁応化 大勅真尊 摂応道周 袁替」
「何だそれは」


 呟く吉平の言に、貴年は不審の声を上げた。
 祈祷にも似たその句を七回唱えると、吉平はにっこりと笑った。


「禁壓夢魔符の呪文。貴年が夢でうなされないようにね」
「ばっ――馬鹿にするな!」


 かっと頬を朱に染め反論する貴年に、吉平はからからと笑うだけだった。







 狂とは、元は暴れ犬を指す語であった。
 転じて狂易、即ち気の狂いが性質を転じる意に用いられる。
 そして狂とはまた、恭と響きを同じくする。





 雲が途切れるまで、そう遠くはないだろう。



 鞍馬山の奥深く、総じて暗くなった辺りに人知れず洞穴が開いている。
 その奥に、哀しき女を封じた符札がひっそりと祀られている。
 その事を知る者は少ない。





 うわー、ごめんなさい、本当はもっと貴年が可愛いし吉平が男前なんですよ!
 私が書くからこうなってしまうだけで!<じゃあ書くなよ

 そんなこんなで一人相互リンク記念に屑さんへ。
 「雨水ノ京」さんの『偽鬼』という話の後日談という感じで勝手に書かせていただきました。
 いやもう、本当に素晴らしいんです。
 リンクページからとんでいって、是非ご一読を!

 だったらこんなの書くなよってツッコミは可のよーな。

 そして毎度お馴染みフォローもとい言い訳。
 吉平の唱えているやつ、禁壓夢魔符の呪文じゃないような。
 いえ、禁壓夢魔符か除不浄符かどちらかのだとは覚えているんですが、どっちだったっけ……<おい
 元は道教の符なんですが、果たして時代考証的にもあっているのやら。
 そして符術が得意なはずの貴年が知らないってどういう事でしょうね?<訊くな
 なんか語句の使い方も間違ってるしなー……ああ。
 なんだろう、怪しげな知識に詳しい晴明から吉平が聞いたとでもいう事にしといてください。

 02/06/19 初書