十三夜の月
寒さがきんと、耳を突くように辺りを支配する。身を切るとの言葉どおりに、剥き出しの手や顔が切り裂かれるような痛みを感じている。程度を越えた寒さが痛みを伴っている。
辺り中に焚かれた篝火も、熱がこちらへ届くより寒さが熱を奪う方が先のようで、明るさのみの享受となっている。時刻は寅の正刻、夜が明けるまでにまだ時間がある。篝火がなければ辺りは完全な闇の中――否。
暗い空に幾つも浮かぶ光点。それはこの足元を照らしてはくれないが、そのうちの一つはやや欠けた姿で光をこちらへ注いでいる。十三夜の月だった。
四方拝に借り出された晴明は、今頃は清涼殿で儀式の只中だろう。保胤の兄、保憲も陰陽頭との立場ともなれば、参画しないわけにもいかず、同じく今頃は山稜を遥拝していると思われた。
「寒いですね」
傍らに立つ童が、それと感じさせぬ口調で呟いた。安倍晴明が息、吉平である。本来ならば保胤と同様、四方拝とは無縁の立場であるのだが、父親について来たのだろう。それが監視か自発的なものかは、保胤には計りかねた。
「ええ。身が引き締まるといえばそうですが……、温石でも欲しいところですね」
苦笑混じりに保胤はそう返した。
実のところ、寒いのは露出している部分だけで、後はそう我慢出来ないでもなかった。さすがに道士としての験がなければそうはいかなかっただろう。我慢が出来るということは、逆に言うならば寒いものはやはり寒いということでもある。
保胤は空を仰ぎ見た。暗く、黒いそのなかに瞬く星と欠けた月。澄んだ空気を通して、それらは殊更に綺麗に見えた。
後一刻ほどもすれば夜が明ける。逆算して保胤はそう考えた。夜明けは卯正一刻頃だから、その辺りになるはずだ。
暫し篝火にくべられた薪の爆ぜる音が辺りを支配する。保胤らが居るのは大内裏は陰陽寮、建礼門を臨む辺りである。常ならばこの時間は閉ざされている大内裏だが、今日だけは特別だった。
保胤の所属する大学寮は朱雀門が外になるが、陰陽寮とも縁がある彼は幾度もこちらを訪れているために、すっかりと馴染んでしまっている。
家業を離れた身にも関わらずのこの状況に、密かに保胤は苦笑を洩らした。
「先生?」
気配を察したか、吉平がこちらを見上げて問うて来た。
「いえ、なんでもありませんよ。もう暫くで、日が出る頃ですね」
東の空に、未だ白む気配はない。だが、変わらず星と月は冴え冴えと上空からこちらを見下ろしている。雲が陽光を閉ざすことはないと思われた。
「静かですね。こういうときは、のんびりと詩の一つでも詠っていたいところなんですが」
紛うことなき本音であった。
文章の道に進んだのは何も家業への反発があったからということではなく、こちらの方が性にあっていると考えたからである。実際に才がないわけでもない。
「父上は、先生の符が使いやすいと言っていました」
「本業は詩文だと、いつも言っているんですけどね」
人を逸らさぬ柔和な笑みで、吉平は言った。返す保胤の言葉も笑みが混じっている。
結局のところ、陰陽の道から完全に離れることは出来ないのだと思い知った一年だった。のんびりと過ごしたいと思いつつも、何かがあってはその事態に関わらないではいられない。晴明などは、それを見越してこちらへ相談事を持ちかけることもしばしばだった。
ただ、それはそれで良いのかもしれなかった。
いつぞや言われた言葉を思い出す。甘いかもしれないが、それで良いと。納得はしきれていないが、大分気の持ちようも楽になったように思う。
間違いも失敗も繰り返すのだろうが、自分を間違えなければ良いのだろう。
いつのまにか、十三夜の月は西の端へと動いている。白み始める東の空を見遣りながら、保胤はずっとそんなことを考えていた。
「先生、今年もよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
暁の空に、太陽がその姿を徐々に現そうとしている。明けに染まる空を、保胤と吉平は並んでしばし眺めていた。そうしてまた、夜が明ける。
正月企画より。
というかタイトルを間違ってつけてました。
本来つけようとしてたのはこっちなのに、それを忘れてタイトルに悩んだという、正月からこの間抜けっぷり。
で、これは佐藤竹善氏の楽曲タイトルから。
040101/040130