夜半の用
風のない大気に、翻るは衣の裾。
解れや破れの目立つ衣は垢じみて、その風貌にも粗野な印象が強い、そんな男が一人。水切りの石の如く、ふぅわりと舞うように人気のない路を駆けて行く。
雲がかかり、月の光は芒洋と辺りを照らしている。だが青白いその光とは裏腹に、じっとりとした空気が漂っていた。
蓬髪に破れた狩衣と無頼の印象が強いその男は、しかし、まとわりつく熱気にもさしたる苦痛を感じぬ風情で足を運ぶ。軽やかな足取りに迷いはない。
――ふと、彼は立ち止まり暗い中天を見上げる。流れた髪の間から覗く容貌は、まとう雰囲気に反して、顔立ちそのものは存外に幼い。蓬髪に手を突っ込むと、頭を掻いた。
どこからか、ひどく覚えのある気配が漂ってきていた。
匂いを嗅ぐように鼻を鳴らし、彼は再び地面を蹴る。速度を増した足取りは、都の西へと向かっていた。
「――ち」
厄介なものを見つけてしまった、そんな心持ちが舌打ちとなって表に出る。
微かに漂い来るそれは瘴気だった。
賀茂光榮は道士である。陰陽寮の暦生であるが、傍目には無頼の外法師との印象が強い。薄汚れた風体がそう見せているのだが、本人には一向に頓着した様子はない。
闇の濃く落ちかかる林に怯むこともなく、光榮は下草を分けて進んでいく。時折差し込む月の光は、枝葉に削がれて足元にまでは届かない。だがその足は迷いなく夜の林を駆けていた。
彼の耳に、乾いた音が届いた。
こぉぉん――と、乾いた木が響かせる音。その音は歪んでいて、出所は知れない。
彼方此方と響くたびに方向が狂う。
幻聴ではない証拠に、歪んだ気配が同時に濃密に漂ってきていた。
「当たり、か」
低く呟き、光榮は気配の元へと足を急がせる。次第に大きくなる音には、明らかに怨が篭っていた。
眠る林の静寂は死を連想させる。そして、そこに溶け込む音は怨。
――珍しいことではない。よくある、とも言い難かったが、道士の光榮にしてみればこの先に待つものを想像するのは容易なことだった。都に蔓延る怪異は枚挙に暇がないほどだ。彼の役職こそまさにその為にあるのだから、変異に出会うのに馴れているのも道理だった。
暫し暗夜の林を進み――一際高く、乾いた音が響いた。
そこに一人の鬼がいた。
「運が良いんだか悪いんだか…………。どちらにせよ、そこまでだな」
呟き、光榮はそちらへと歩を進める。
怨念を込めて振り下ろされる槌の音が、歪んで響く。呪いに憑かれ、怨霊にその身を化したともなると、さすがに珍しい部類の話だが――皆無というわけではない。その類の話に聡い光榮にしてみれば、歪んだ気配を察したあたりでその正体には気付いていた。
もっとも、本人はこういった事態に進んで関わろうとするほどのお人好しではないと自覚している。偶然に通りかかったという、いわば気紛れじみた意図しか、そこには存在しない。
「……まあ、ほっときゃあ、余計な手間が増えるしな」
だというのに、何故だか言い訳めいたことを呟きつつ、光榮は懐から札を取り出した。白木の表面には、紋様めいた字が踊る。それを掲げるように目前に翳してみても、呪詛を行う怨霊はこちらを気にもかけていない様子だった。
彼女――その怨霊は女だった――には、呪詛を行うこと以外に残された存在意義はない。凝り固まった念が負へと転じて、怨霊という存在へと変化する。想いが一途であればあるほど、呪いに歪めばそれは凄惨な恨みへと変わる。その変化自体は、さして珍しいとは言えないのが現実だった。
低く、光榮は常人には聞き取れない旋律を口の中に紡ぐ。あわせて持っていた札を躊躇いなく怨霊へと押し付ける。途端、青白い炎が燃え上がった。幻のその炎に、しかし、鬼となった女は苦悶の表情を浮かべた。身体をのけぞらせ、苦痛に喘いでいるように見える。
「いいからとっとと行っちまえ。楽になるぞ」
呟きは聞かせる気がないのか、ぼそぼそとした声音で明瞭とは言い難い。
苦痛の時間はさして長くはなく、広がる炎のなかで、女の輪郭は次第に薄らいでいく。その姿が闇に融け、存在を示す名残がどこにもなくなったのは、それからすぐのことだ。
後に落ちたのは黒ずんだ木札が一枚。微かに漂う瘴気が、女の呪詛が行われていたことを示すのみ。
「まったく、簡単なことだろうよ、なぁ――」
ちらと木札に目を落とし、光榮は嘯いた。
たかだか素人の呪いだ。封じるのは容易いし、ここまでなってしまえばそれより他に取るべき手段などあろう筈もない。それは解り切った道理だ。
「何を迷うことがあるってんだ」
吐息交じりの呟きには、呆れた風情が濃い。そのまま放置するのが心苦しいというのはまだ分からないではない。しかし、そこで取るべき手段があるというのなら、迷う意味はそこにはない。そう考えるのはごく自然のことだろう。その迷いはときに優柔不断と同じことだ。
だが、だからといってその憂慮は今更だ。これも分かりきってはいる。あの性格が一朝一夕でどうにかなるものでないことぐらい、生まれた時からの付き合いで身に染みていた。
こりこりと自らの頬を掻き、光榮は木札を懐へと仕舞いこむ。思案を止めたその足が地面を蹴った。
ふわり、ふぅわりと林の中でも軽い足取りで、その場を離れていく。すぐにその姿は闇に呑まれて見えなくなった。
雲が切れ、顔を覗かせた月だけが冴え冴えと光っていた。
光榮って独り言多そうですよね<え
いやまあ、ともかく。
個人的な見解ですが、彼は保胤先生に対して含むところがありそうですよね、と。悪い意味じゃなくて、良くも悪くも気にかけてそうです。コンプレックスとはまた違うし心配というほどのものではないんでしょうけども。
きっと「この人本当に大丈夫なのか」という懸念があるんじゃないかと(笑)。
生まれた時からの付き合いということと、お互いの立場があるので結構他の人とはまた違った関係のような気がします。兄弟とも違いますしね。
040222