記憶の言葉
いつかに訊いた、言葉があった。
「保胤は、どうしていつも笑っていられる」
幼かった自分が発した問いに、まだ少年の歳だった彼は、いつものように微笑を浮かべたままに首を傾げる。
「――え、そんなことはないと思いますが……」
年端もゆかぬ少女相手にも、丁寧な口調で答えが返る。
だがその答えは納得のいくものではなかった。はぐらかされたと、そう思ったのだ。
自然、重ねて問うた声はいささか険を含むものになる。
「笑っているではないか。私は保胤が怒っているところも、泣いているところも見たことがない」
「それはまあ、時継の前では怒ることも泣くこともないですから。でも、僕だって怒ることぐらいはありますよ?」
ごく真面目に、少年は少女に対して言葉を返す。十にも満たない少女の言にも、一々生真面目な返答を寄越すのがこの少年らしいといえばそうだった。
「泣くというのもないとは言いませんが……、泣いたところで、何かが変わるわけではないでしょう?」
「だから、保胤は泣かないというのか?」
穏やかに笑ったまま、少年は首を傾げた。
「だから、というわけではないですが、そうかもしれませんね」
けれど、少女は少年の言葉には頷かない。
向かい合い座したまま、正面から少年を見据えて言葉を繋ぐ。
「だったら保胤は泣くことは無駄なことだと言うのか? 何も変わらないから、だから泣いたところで意味はないと、そう思っているのか」
何故だか分からなかったが、少女は少年の言葉に頷くわけにはいかないと思ったのだ。
或いはそれはただの我侭であったのかもしれない。
「無駄かどうかは分かりませんが」
だというのに、少年は変わることなく穏やかにこちらの問いに答えてくる。
「時継は、泣く時に何かを考えていますか?」
「そんなことはない。泣くのは、泣きたいからだろう」
「僕も同じです。何かを期待して泣くわけではないでしょう? まあ、強いて言えば気持ちが幾分楽になるかもしれませんが、泣くというのは結句、自分の為なんです」
講義をする時と同じ口調で、少年の言葉は続いた。
「それでは、泣くというのは我侭なことだと言うのか?」
「そういうわけではないですよ。ただ、ここで泣いて何になるということもないですし、泣いてどうにかなるものがあるわけではないですから」
諭すというよりは、ただ聞かせるためだけのような口調で少年は言う。少女の内心を知ってか知らずか、穏やかに笑んだ口調は変わらない。
「泣きたい時に泣けるうちは、泣いておいた方がいいんです。泣くことで変わるものがあるとすれば、それは自分の気持ちですから」
「だったら――何故、保胤は泣かない」
「それこそ、必要がないからですよ。僕は、時継の前では泣きたいと思うようなことには出会ってませんから」
そう言って、少年は笑う。
少女はふいと横を向いて、ぼそりと呟くように言う。
「……保胤がそう思うのならば、そうなのだろうな」
そして、何事もなかったかのように少年は講義を続ける。
「保胤。辛かったら、泣け。――泣けば少しは気が楽になるというものなのだろう?」
だから、彼女は桜の木の下でそう言って笑いかけた。
青年となった彼は変わらず微笑を浮かべたままだったが――それでも、その言葉に頷きを返してきた。
今はそれで納得しておこう。
彼女が密かに考えていたその言葉を青年が知るのは、更に後の話。
微妙な出来なので小話行き。
元ネタは某曲ですが……、まあなんていうか、要リハビリです。
040522