ひとのかたち




 夏から秋へと転じるその境の空気が、熱の篭もった身体を撫でていった。冷気を帯びてきた風が、季節の変わり目を如実に示している。
 まだ、一つの季節が過ぎただけ――
 暗くなりがちな思考を訂正して、あえて希崎心弥は楽観的な考えを頭に浮かべた。

 そう、まだ手遅れではない。
 ひどく虚しく響く言葉に我ながら苦笑する。どうにも焦りばかりが先に立つとろくなことがない、それは分かってはいるのだが。


 時刻はそろそろ夕刻に近い。
 「画廊」の内部にいては、時間の感覚もあまりないのだが、それでも積もった疲労がその時間の経過を知らせる。加えて、少し腹が減らないでもない。
 作業を中断してから横になっていた身体に活を入れて起き上がる。時間が惜しくないわけではないが、あまりに根を詰めすぎても作業の効率が却って落ちる。
 一つのことに熱中すると周りが見えなくなる自分を叱咤する幼馴染の声が聞こえてきそうな気配に、心弥は苦笑した。それには、先程よりも幾分「苦」の割合が濃い。


 気の遠くなるような作業に、果ては見えない。それは充分すぎるほど自覚しているが、だからといって諦められるものでもなかった。掴んだ手を離すのは、もう嫌だった。



 画廊を抜けると、白い一室に出た。
 清潔な印象を強く与えるそこにはベッドに横たわる少女を模した人形、それから一人の男。

「あれ?」

 作務衣を着た三十がらみの男の姿は予想外だった。心弥が軽く上げた驚きの声に、その男も振り返る。

「心弥じゃねぇか。どうした、こっちに用か」
「いえ、ちょっと抜け道に。夢路さんこそ、この時間にここにいるなんて」


 夢路と呼ばれた男は、火の入っていない煙管を咥えたまま、ベッドの傍らの椅子から声をかけてきた。表情を読ませず、また、感情の色も見えないが、ベッドに横たわる人形を見るその表情は影の具合か、悼むような気配があった。


「こっちのごたごたがあって見舞いにも来れなかったからな。ま、挨拶がてらってとこだ」

 様々な延命装置が繋がれたその人形は、心弥の幼馴染でありまた探し人でもある露草弓の姿を模していた。精巧に造られている少女の抜け殻に目を遣りながら、心弥は夢路の声を聞いていた。軽い口調ながら、そこに潜む真摯な情を汲み取れないわけもない。


「それなら知ってます。フローラさんから話を聞きましたから」
「ああ、そういやお前も少しばかり関わっていたのか。――お前はどう見た?」
「え?」

 訊き返す心弥に、夢路は一向に老いを見せないその顔を笑みの形に歪めて、

「俺が見た限りだがな、真砂とお前、どうも似たところがある」
「ああ――」

 その言葉に、心弥は微笑した。曖昧なものでなく、芯の強さに裏打ちされた笑み。

「僕も、そう思います。“色”が、似ていましたから」
「見えたのか?」

 夢路の問いには頷くに留め、心弥はその視線を再び弓の人形へと向ける。

 成長しない人形は、或いは今の彼女の状態と似通っている。『マリアンヌの虫篭』に囚われた彼女の時間は常人のそれよりもはるかに遅く流れている。永劫すら一瞬に過ぎない世界は、しかし、いずれ朽ちる「もの」とは正反対であるとも言えた。


「多分、向こうも同じようなことを考えたんじゃないかと思いますよ。だからかな、僕も力になれれば、そう思いました」
「成る程、確かに境遇も似てるが――本質的に似たところがあるんだろう。放っておけば無茶をやりかねんところもそっくりだ」

 ――これには心弥も返す言葉がない。
 苦笑する心弥に、夢路は煙管を肩に当ててとんとんと叩いた。

「まあ、なんだ。あまり根を詰めすぎるなよ。その分だとろくに食事も摂ってないだろう」
「これから食べるところだったんですよ」
「じゃあ丁度いい。お前、店に寄ってけ。フローラ達もいることだしな」


 しばらく考えて、心弥はその好意に甘えることにした。時間は惜しいが、からかいめいた忠告も身に染みたからだ。
 他愛もない話を続けながら病室を出るその間際、心弥はベッドの上の人形を振り返る。

「人の形」をした、命を持たないもの。
 ――そして、この世に彼女の存在を示すもの。

 贋物の彼女も、本物の彼女も、その外見は時間を経ても変わらないはずだった。そのことが示す「距離」に、心弥は密かに息を吐いて――そのまま後ろ手に病室の扉を閉めた。




 実は心弥と真砂の会話を書こうと思ってました。
 でもお互いのことをどう呼ぶんだか分からないので諦め。
 心弥は「乾さん」かなぁ、とか思うんですが。真砂も「希崎さん」て呼ぶんでしょうか。


 030627 初書